シングルボーイ下位時代

しょっぱいドルヲタが細々と喋ります

ドルヲタショートショート小説『握手会』

 

 

「他に握手会参加ご希望の方いらっしゃいませんか~?」

 

 

腕時計の長針をチラ見しながらそう呼びかけたスタッフの前に、おずおずと一人の男が歩み出た。

 

 

「あの、〇〇ちゃんで…」

「〇〇ですね。それではこちらへどうぞ」

 

 

男は少し震えながら券を差し出すと、促されるままに歩を進める。

その頬は薄く汗ばんで、熱の引いた手は冷たかった。

 

 

移動中も無意識に動く男の唇は鯉のようにパクパクと開閉し、カラカラに渇いたその口は、何度も練習してきた『最初の一言』の動きを依然として繰り返した。 

 

 

『ありがと~!』

 

 

やがて所定の位置に着くと、長机を挟んで手を握った男を、アイドルが笑顔で迎え入れた。

 

 

「あの、〇〇ちゃん初めまして…」

『…ふふ。うん、はじめまして!』

 

 

その一言で全てを察した彼女は、にこやかに顔を近づけて男の話を聞く態勢に入る。

 

 

「あの…今日初めてライブ来たんですけど、〇〇ちゃんキラキラしてて凄く可愛いかったし、ライブも、めっちゃ楽しかったです!」

『ほんと?ふふ…嬉しい!ありがとう!』

「あと…歌ってる時の表情もすごい良くて」

『ほんとに!?』

「うん。あと、MCの回し方とか…」

『…うんうん!』

「ダンスも凄く上手くて…」

『…うん!』

「ブログもいつも面白くて…自撮りも……」

『うん…うん……ぷっ、ふふっ…あはははは!』

「えっ…な、なに?」

 

 

突如笑い出した彼女を前に動揺を隠せない男。

遠巻きに様子を伺っていた他の客達も、次第に状況の違和感に気付き始める。

 

 

「えっ…ぼ、僕何か変だった…?」

 

 

依然としてケラケラと甲高い笑い声を上げる彼女を前に、とうとう泣き出しそうな表情になる男。

 

 

(いくら男の話し方がぎこちなかったからといって、わざわざ自分に会いに来た客に対してその態度はないんじゃ…)

 

 

周囲にそんな空気が広がった瞬間、彼女はあっけらかんとこう言い放った。

 

 

『ごめん、ムリ!最後まで合わせてあげようとしたんだけど笑っちゃったw』

 

 

直後、つられる様に男の表情が一気に緩んだ。

 

 

「はははッ!……ちぇ、なんだよ~。かなり再現率高かったのにw」

『いやいや、言っとくけどあの時はもっと酷かったからね?』

「え、マジで?」

『うん。話の7割噛んでたし、話題ももっと散らかってたよw』

「うわー、やめてくれ恥ずい…」

 

 

先ほどとは違い、冗談めかした動作で大げさにうなだれてみせる男。

 

 

『あーあ、せっかく私が完璧に合わせてあげたのに』

「ホントにな。でも、初めて会った時のこと、覚えててくれて嬉しかったよ」

『いえいえ。こちらこそ』

 

 

「すいません、そろそろお時間です」

 

 

男の肩を叩きながら、先ほどのスタッフが申し訳なさそうにそう告げた。

 

 

「あ、はい。えっと~…今日も楽しかったよ。ありがと。じゃ、またね」

『うん、ありがと。またね!』

 

 

そうして離れた手を何度か振ってから彼女の元を去る男。

「またね~」と笑顔で見送ってくれた彼女を数秒ほど名残惜しそうに見つめてから向き直ると、男はそのまま会場の出口へと向かった。

 

 

それを見送ったスタッフは、その場に残っていたファン達に向かって再度声をかけた。

 

 

「え~、他に特典券をお持ちのお客様はいらっしゃいませんか?それではこれで、△△△最後の特典会を終了させていただきます。約x年間の暖かい応援、本当にありがとうございました。」